環境

サミットのせいもあるのだろうが、毎日毎日毎日毎日、環境、気候変動、地球温暖化、それらをキーワードとしたことが耳に入らない日はない。二酸化炭素の排出がメインの問題として考えられているようだが、地球規模の気候変動は地球規模の気候周期によるところも大きいのではないかと思っている。でも、だからといってこのままいろんなことを放置していていいとは思わない。少なくとも因果と思われることがあるならば、それを排除してみて経過を観察してみるというのは方法としてそれほどおかしなことではないと思う。原子力を利用した発電がベストだとは思わないが、暫定的に原子力を使い、徹底的に二酸化炭素の排出を削減したらいいのではないかと思うのだが、どうだろう。
テレビでまともに飯も食えない人々の映像を見ていると暗澹とした気分になる。自分は決して金持ちではないが、明日食う飯のことを心配する必要はないくらいの暮らしはしている。そういう立場にいる人間はそのことを謙虚に受け止め、何か人の役に立つことをやらなくてはいけないんだろうなと思う。世の中きれいごとだけですむことばかりではないが、本質からかけ離れた下らない議論を終始行い、目の前に金があれば他人を蹴散らしてでも儲けようというような恥ずかしいことはしたくない。社会に貢献することで利益を得、それをまた新たに社会に貢献することに使うというのが本来あるべき姿だと思う。強引な金儲けはその裏に損をする人を必ず生む。そういう間違った価値観が、結局は全てのひずみにつながるのだと思う。きれいごととは理想であり、究極の目標である。きれいごとを語れない人は絶対に他人を幸せにすることなどできない。
会社等で団体生活をしているとホントにくだらないことが多くて嫌になることがある。その多くの原因はやさしさの欠如であるとすれば大抵説明できる。自分はそういうやさしくない人間を見ているとホントに嫌になる。ことを荒立てたり、不必要に好戦的な態度はとらないが、ものすごい嫌悪感を感じることは間違いない。
ある瞬間、生理的な強い嫌悪感を感じたとする。そういうとき自分はその感情が一体どこから来ているのだろうかと分析しようとする。紙に因果を書き出して、なるほどと理解できることもあるのだが、どうにも理解できないことというのも多い。そういう嫌悪感の原因を探っていくと、そこに自分の姿が見えているのではないかと思うこともある。
自分が不完全であるということを自覚しているからこそ、きれいごとでもいいから、正しくありたい、もしくはいつかは正しくなりたいと思うのだ。やさしくなりたい自分と、いつもそういうふうに振る舞えない自分の狭間の存在が今ここにいる自分なのだ。

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