広島駅前の蔦屋書店に時々行くのですが、そこに「万年筆クロニクル」という本があって気になっていました。片岡義男の万年筆インク紙の中にもこの本のことが書かれていたため、どんな内容なのか確認するために買ってきました。
すなみまさみちさんという人は、万年筆の時代を保存するという確固たる信念を持ちつつ、万年筆10000本とそれにまつわる資料を蒐集しているようです。本は万年筆にまつわるありとあらゆる資料をこれでもかと載せてあります。通読するというよりパラパラとめくりながら気になったところをところどころ読むといった感じで楽しめます。
インクの吸引方法だけでも27方式紹介してあって、便利なものを追求する人の技術に対する思いがひしひしと伝わってきます。こういう歴史を眺めていると、現代の万年筆は過去のそれとは全然違うものだということが理解できます。個人的におもしろいなと思ったのはソリッド式と毛細管式。ソリッド式はインクが固体状になっている方式で、インクが運べない戦地などで普及したのだそうです。タブレットやパウダー、棒状、丸薬状のものがあり、それを内蔵したものもあったそうです、水を入れて希釈して使うもので、使っているうちにインクの色が濃くなる欠点があったそうです。毛細管式はパーカー61で採用された方式で、セロファンを巻いたものをテフロン加工した筒に内蔵しており、インクに浸すと毛細管現象でインクを吸い上げる方式のようです。ウィリアム・ホールデンがインクが吸われる様を見ている広告も紹介されています。あまり長い間採用された方式ではないようで、欠点は洗えないことだったようです。
素材や成形・加工技術が進歩すれば物の考え方が変わります。その時その時の限られた素材や技術の範囲で最高のものを作ってやろうという技術者の熱意と失意が伝わってくるようです。わたしはどちらかというと普遍的な自然の原理に憧れを抱く方ですが、一方では、人が生きて行くのにそれほど重要じゃないと思われるようなことをひたすら追求するマニアックな世界も好きです。記録するための道具として万年筆の必要性はないと思います。鉛筆である必要性も、ボールペンである必要性もないという意味においてです。インクを細い何かで紙にしみ込ませながら文字を書いていた時代、延々と文字が書ける万年筆は夢の筆記具だったことでしょう。シャープペンシルやボールペンという便利な筆記具が次々と生まれてきて、その存在価値はほぼなくなったかのように思えます。少なくとも多くの人がその方法を選択しないという意味において、万年筆はメジャーではありません。しかし、そんな中、万年筆も紙もインクも着実に進化して、便利なものに少しずつ進化して行きました。
万年筆で文字を書いてみるとわかるのですが、それは思考を具現化するという点において、非常に自然な行為であることがわかります。見やすくシャープな線が筆圧をかけることなく、そして途切れることなく書けます。金属ばねとスムーズなペン先が紙という非常にあいまいかつ複雑でありながらある一程度の制御された構造を持つ物体にぶつかり、ペン先がそこを滑る感じが伝わってきます。インクを変えると書き味が変わるのがわかるということはインクの流れや定着具合も間接的には感じているということでしょう。あたかもペン先までもが体の一部になったかのような官能は万年筆でしか味わえません。
メジャーでありえないのは官能的であるがために厳密な正解がないこと、また、その状態が達成されるにはある一程度の相性の良い組み合わせが必要なことです。何が普通かはさておき、普通の人はあまりそういうことを気にしないか、そこまでの価値を認めません。それゆえに万年筆には特殊性があります。しかし、カクノをはじめ最近は安価な万年筆を使っていつものノートに筆記するだけで十分にその良さを味わうことは可能です。あまり難しいことを考えずに、ちょっと万年筆でも使ってみようというところから、あれっ、万年筆って結構おもしろいなってところに気が付きだすのです。
ひとにとって最高の筆記具とはなにか、それを追い求める限り、万年筆はまだまだその価値を失わないでしょう。