時空とつながる感覚

自分はあまり社交的な方ではないので、積極的に他とのつながりを持とうとすることは少ない。
でも、写真を撮っていると時々世の中とつながったような感覚になることがある。自分がなぜ写真を撮ろうとするのかはっきりとはわからない。それでも写真を撮るということは世の中とのつながりを探っているような行為だと思うことがよくある。自分が今ここにいたという証拠を残しておこうという行為だ。過去の写真を眺めていると、それはもう今現在ではない。それでもつながった感覚だけが明確に残っている。それはまさに時空とつながった感覚に近い。確かにあのとき自分はあそこにいて、被写体との関係があったという明確な感覚だ。自分は写真が表現の手段だとは思っていない。それはそのときそこでそれを見ていた自分がいる証拠を残し、それを他人に知ってもらうことで自分の存在を客観的に確認しようとする行為なのだ。つまりそれは、今自分が生きているということを明確に感じることだ。100年後のここにきっと自分はいない。それはそれで寂しいことではあるけれども、全ての人に平等に与えられた運命だ。自分が出会う人や景色は今だからこそ出会えるわけで、100年前や100年後ではその関係は生まれない。正確には今その瞬間は二度と訪れない。海で出会った幼い君たちは、もうどのくらい大きくなっただろうか。祭りでびちゃびちゃな君たちは受験勉強に苦しんでいるのかなぁ。金魚に夢中だった君はいま何に夢中だろうか。あの夏の日、竹の釣り竿を手にした君はまだ釣りをしているだろうか。鰹節を乾燥していた夫婦は今もおいしい鰹節を作っているのかな。海で爆撃機の話を聞かせてくれたおじさんはまだ海で海藻を拾っているのかなぁ。もうあの日は二度と来ないのだけど、だからこそ、生きている全ての時間が大切なものに思えてくるのかもしれない。





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